丹野清志写真展「1963年、夏 小野田炭住」
2014年6月15日(日)~7月5日(土)(展示は終了しています)
「1963年夏。小野田炭鉱閉山から5カ月、炭住に暮らす人びとの記録」
作家コメント
1963年2月、小さな新聞記事に目をとめました。常磐炭田の小野田炭鉱が閉山したという記事でした。当時は新聞、雑誌で炭鉱問題がひんぱんに取り上げられていて、写真学生だった私は土門拳写真集『筑豊のこどもたち』を見て刺激を受けていたこともあって、
記事を読むとすぐに炭鉱の町へ出かけることにしたのでした。
ふらり訪ねた小野田の炭住では写真を撮ることはなく、何人かの人とささやかな会話をすることになるのですが、「炭住」の第一印象は、筑豊の写真集に展開する様子とはずいぶん違うなということでした。2度目はこどもたちと遊んだだけでした。
が、「炭鉱問題」としてではなく炭住に暮らす人びとを撮ろう、というテーマが固まりました。
そして3度目の7月。炭住で暮らす人びとの日常を見つめるには少し滞在すべきではないか、と湯本駅近くに部屋を借り、その下宿から毎朝バスで小野田の炭住へ通ったのです。
湯本→小野田のバス代は20円でした。
だれもがふつうにいて、ふつうに暮らしている。よそ者の私もふつうにそこにいる。
なぜ、なにもかもがしぜんに存るのだろうと思いながら写真を撮っていました。
この地に住む人びとはみんな同じ仕事をしてきたのだ、というあたりまえのことに気付くのは炭住通いに慣れたころでした。
時を経ていま、これらの写真は1963年7月6日から8月2日の小野田炭鉱住宅の生活記録ということになるのですが、19歳の私には、人がふつうに暮らすということはこういうことなのだ、
ということを教えてもらった貴重な時間だったのです。
なお、2004年いわき市美術館「炭鉱(ヤマ)へのまなざし」、2008年いわき市石炭化石館「小野田炭鉱住宅の人びと1963」で展示いたしました。
1944年福島県福島市生まれ
1964年東京写真短期大学(現東京工芸大学)卒業後雑誌の
スタッフカメラマンを経て、1970年からフリーランス。
日本列島各地の都市と農漁村を巡り、見聞きした記録を
雑誌、写真集、単行本で発表している。
「村の記憶」(1975年/技術と人間)
「路地の向こうに」(1979年/ナツメ社)
「ササニシキヤング」(1983年/技術人間)
「カラシの木」(1986年/技術人間)
「1969・1993 東京・日本」(1994年/ナツメ社)
「農村から」(2001年/創森社)
「1963 炭鉱住宅」(2007年/グラフィカ編集室)
「1978 庄内平野」(2008年/グラフィカ編集室)
「シャッターチャンスはほろ酔い気分」(1982年/ナツメ社)
「おれたちのカントリーライフ」(1988年/草風館)
「日本列島ひと紀行」(1995年/技術と人間)
「日本列島写真旅」(2001年/ラトルズ)
「海風が良い野菜を育てる・日本全国野菜の里を訪ねて」(2013年/彩流社)
1972年「死に絶える都市」ニコンサロン(東京・銀座)
2004年 企画展「炭鉱(ヤマ)へのまなざし ー 常磐炭鉱と美術展」いわき市美術館(いわき市)
2006年「地方都市」galeriaQ(東京・新宿)
2007年「1963 炭鉱住宅」galeriaQ(東京・新宿)
2008年「小野田炭鉱住宅の人々 1963」いわき市石炭化石館(いわき市)
2009年 企画展「文化・資源としての炭鉱展」目黒区美術館(東京・目黒)
2014年「東京 1970-1990」ギャラリー冬青(東京・中野)